上から目線

最近、ブログのコメント欄や、はてなブックマークのコメントに対する反応として、「上からの目線で不愉快」という趣旨のものを度々見かける。

どうやら、そのような発言をする人にとって、「上から目線」というのが悪いことであり、批難されるべきものであることが自明なようである。

これに対し、私は少し違和感を覚える。
おかしいと思ったことをおかしいと指摘するときに、常に批判対象と同じ目の高さに自分を置かなくてはならないのだろうか。

意見の相違というのは、多くの場合、同じ事物を見る角度や、見る側の立場や経験の差から生まれるのだと私は思う。また、自分の中に生まれた異論を公にするということは、相手の見方より自分の見方の方が正しいという前提に立つ場合が多いのではなかろうか。つまりは、自分の視点のほうが正しいという認識であって、必然的に、「上から目線」にならざるを得ないということになる。

もちろん、その内心を隠して、表面上「同じか下から目線」を取り繕う(意識してか無意識にかに関わらず)ことは可能だろう。そして、その方が相手に受け入れられやすかったり、角が立たなかったりという利点もあるだろう。
そして、わが身を振り返ってみても、「上から目線」が前面にでた物言いに不快さを覚えることがあるのは否定しない。また、「上から目線」と取られないような表現を工夫することも頻繁にある*1

ただし、注意しなければならないのは、「上から目線」なのかそうでないように見えるのかというのは、議論の本質ではなく、うわべの取り繕い方の問題に過ぎないということである。

相手の視点が「不当に高い」と感じたのなら、「上から目線である」というレッテル貼りをするのではなく、堂々と自論の正しさ・視点の高さ(または相手の主張・視点の間違いや矛盾)を示せばよいのである。
また、相手の視点の方が確かに正しいのであれば素直に受け入れれば、自分の視点も高まるかもしれない。

というところまで止めておけば、さほど嫌われないのだが、さらに邪推までしてしまうと…。

「上から目線」であると言って人を批難する様子は、自分の視点が低いという敗北宣言、またはそれに気付きたくないコンプレックスの発露に見えてしまったりもする*2
そして、「上から目線」批判というのは、相手に「自分より同じか下からの目線で接してくれ」という要求をしているということでもある。つまり、相手に謙虚さを求めつつ、自分は尊大に振舞うという矛盾した姿に見えるのである。
すなわち、「上から目線」であると言って人を批難する人は、その瞬間、その批難対象である「上から目線の人」に対して「上から目線」で批難しているという滑稽さがあるのだ。



似た意見
http://blog.drecom.jp/akky0909/archive/622


本エントリーを書くきっかけのエントリー
(取り立ててこのエントリーに対する反論というわけではなく、「上から目線批判」について日頃感じていたことを、書いてみようと思ったきっかけ。このエントリーは、自分に対する批判に対する反応としての「上から目線批判」ではないので、内容としても本論の対象からは、やや外れている。)
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20061121/1164067791

*1:本エントリーがバリバリの「上から目線」なのは半ば意図したことである。念のため。

*2:ラッセル幸福論』で言うところの、だれもが自分自身に対して感じている尊敬と深い愛情を他人は自分に向けてくれていないということへの無自覚(のままいたい)の表れだろうか。「上から目線」への怖れはどこから来るのかについては、いずれ、もう少し深く考察してみたい。