セクハラについて

はてな界隈で論争になり、私も少し首をつっこんでいるセクハラ論争について、ブックマークコメントや、他の人のエントリーのコメント欄での記述では意図が間違って伝わってしまう危険性があるなと思っていたら、危惧が現実になってしまっているようなので、自分でエントリーを立ててみることにした。と思って書いてみたものの、思いを文章にするのは難しく、逆効果かもしれないが公開する。

セクハラという表現の問題

あまりにも質的にも量的にも異なるものがひとくくりにされているのではないかと思う。
すなわち、故意なのか過失なのか、軽微なのか重大な犯罪なのか、性的といえるかどうか微妙なのか明白なのか。もちろん、それぞれどちらかではなく、いろんな中間レベルがあり得る。それらを全部くくって、「セクハラだ」というのは、次のような弊害があると思う。

  • 重大な犯罪行為が矮小化される危険
  • ハラスメント(いじめ・いやがらせ)です、いや、その意図はありませんという水掛け論
  • 「セクハラ」ラベルを貼られることを恐れ、少しでも疑いのある行為ができなくなること

 (「少しでも疑いがある」は、容易に拡張されうることに注意。)

  • 更に、受け手の判断のみで認定されるなら、認定されうる範囲が際限ないこと

ではどうすべきと考えるか

明らかに「性的」で、明らかに「いじめ・いやがらせ」であるものを「セクハラ」というのは、問題ないと思う。(「明らか」かどうかに難しさがあるのは確かなので、どこに線引きするかは困難。だからといって、受け手の判断だけに任せるというのは行き過ぎ。)
しかし、「性的」であるか無いかに関わらず、「いじめ・いやがらせ」であると断定できないようなものについては、「セクハラだ」と糾弾するのではなく、その個別の行為の不適切さや、それによって不快であった/傷つけられた/被害を被ったという事実を指摘し、改善・事態の修正を図る方が良いのではないかと思う。(不適切さ/被害が大きかったり、改善が見られないような場合は、より強い言い方・措置がありうるだろうが、その場合も、「セクハラ」というラベルを引っ張りだす必要があるのかは慎重でありたい。)

これは、言われた側の立場でというだけの話ではなく、結局のところ、「被害」を受けた側の立場からしても、より有益な選択ではないだろうか。つまり、「セクハラだ」と言ってしまった場合の、「いや、そんなつもりじゃないから」といった反論は、「私は不快です」「そのような表現は私を非常に傷つけるものです」と言った場合は起こりえないとは言えずとも、起こりにくくなると考えられるから。

一方、立場を利用した性的関係の強要などのような重大な犯罪行為についても、「セクハラ」などという表現は、やはり不適切ではないだろうか。セクハラに限らず、「いじめ・いやがらせ」という言葉を使うことが事実を矮小化することになる場合が多いから。
例えば、学校における「いじめ」でも、「暴行」「恐喝」「脅迫」「監禁」といった犯罪行為は、「いじめ」と言ってしまってはマイルドになりすぎな訳で。

個人的背景

個人的には、私も、性的なからかいや、個人的な事柄についての無配慮に踏み込まれることに対しては不快と感ずる方だと思う。
なので、そのようなときに「セクハラだ」と糾弾したい気持ちも理解できるし、実際に言った経験も複数回ある。
たとえ冗談めかして「それってセクハラですからやめてください」と言った場合も、相手にその意図がなければ、相手が鼻白んで、気まずくなってしまうことが多かった。確かに、その行為をやめさせるという効果自体はあるのだが、必要以上に相手との関係を損なう危険性も感じられた。

個別案件に絡んで発言したことについて

個別案件に絡んで上記のような内容のコメントをしたことが、「セカンドレイプ」的であるとの批判があることは理解しているし、当事者にそう思われたのなら、平気でいられる訳でもないし、傷を深くしたと言われればお詫びしたい気持ちもある。
だが、公開しての糾弾が行われた場合に、それについて賛意だけではなく、異論が起こることまでを問題視することには同意出来ない。
異論を許容出来ないのなら、公の場で誰かを糾弾するべきでは無いと考えるから。(もちろん、異論と罵倒や揶揄は別である)
というわけで、このエントリーについても、異論は歓迎である。

民族の誇りを取り戻すのに必死な可哀想な人々へ

自衛隊のお偉いさんや、産経新聞の皆様や、そこに登場する正論文化人の皆様は、民族の誇りを取り戻すのに必死らしい。
あまりの必死さに、脱帽するあまりである。

私たちは日本人として我が国の歴史について誇りを持たなければなら ない

「私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は衰退の一途をたどるのみである」

 一気に読み込んでいって、最後の文章にうなった。ここまで書いて更迭されるのであれば、それでいいではないか。こころある人の多くは、ひそかに拍手を送っているはずだ。

私なぞ、生まれ育った日本を愛することに、それほどの労力を必要とせず、小学校の頃から日教組の分会長の教えを受け、日本国憲法の格調高さに国を愛することを深めながら、今日に至っているので、苦労しながら国を愛そうと努めていらっしゃる方々には頭が下がるばかりである。

そもそも、過去に日本が成した愚行について指摘されると正気でいられないあたりが、国を愛する心の欠如を表していて嘆かわしくもあるが、そんななか、なんとか国を愛したいとあがく姿にも頭が下がる。
そんな中、過去の愚行を直視しながらも国を愛し続けることの出来る人を目の当たりにしたときに、ついつい羨ましさのあまり、「反日だ」「自虐史観だ」というような憎まれ口を叩いてしまう姿には、あまりに痛々しくて正視に耐えないこともある。

欠けているところを正視しながら愛すことは、子供には難しいのは分かるが、その一歩を越えてこそ大人になれるのにと、年齢の上ではかなり上なはずの某自称愛国ながらむしろ国を愛しきれない新聞社の記者には言ってあげたい。

そんなにじたばたしなくても、みんな日本は大好きですよ。
特に、あなた達に反日と言われる日本人は、あなた達より自信を持って日本を愛しています。

いいかげん、あなた達も、もうちょっと日本を信じてあげませんか?

追記:2008年11月2日
表題が内容に合致しないという指摘をいただきました。
http://b.hatena.ne.jp/imo758/20081102#bookmark-10651255
確かにおっしゃる通り、「取り戻す」ではなく、「水増しする」「取り繕う」「確立する」あたりの方が相応しいですね。
更に、この書き方では、該当するような人たちが素直に読んでくれるとも思えません。精々、ちょっとした皮肉にしかなっていません。
伝える目的で書くならもう少し書きようがあるはずですが、夜中に勢いで書いたこの文章自体はこのままにしておきます。
いずれ、工夫して書くエネルギーがある時があれば、別途書いてみるかもしれませんが。

ネガコメにムカッときてしまう人にお勧めの本

はてなブックマークや、ブログのコメント欄やトラックバック等で、自らの発言に対してネガティブな反応が来ると居ても立ってもいられなくなってしまう人が少なくないらしい。
私自身、ムカッと来てしまったり、ショックを受けてしまったりすることは決して少なくはない。

そんなとき、ある本のことを思い出すと、冷静さを取り戻すことが出来たりするので、是非とも皆さんにもご紹介しておきたい。

それは、『amazon:ラッセル幸福論』。

該当する記述は、「だれもが自分自身に対して感じている尊敬と深い愛情を他人は自分に向けてくれていない」こととしっかり向き合いましょうというところ。

コレ以外にも、教育ママの話など、今の世界でも十分に通用する(というか、あの時代にこんな洞察をしていたラッセルって凄い)話が沢山あって、一読の価値は必ずあると、余り好きでない断言までしたくなるほどのおすすめな本。
表題には、ネガコメにムカッとしてしまう人向けと書いたが、そうでない人にも是非おすすめしたい。

意見が食い違う楽しみ

はてなブックマークにどっぷり浸かっていると、自分と似た発想の人に出会う。
そして、お気に入りに登録したり、スターのfriendsになったりする。
「ああ、この人は、似た価値観を持っているなぁ」などと感じたりする。

とは言え、個別のエントリーに、全く逆の意見のコメントをつけていたりする様子に出会うことも、決して珍しくはない。
そんなとき、一瞬、期待を裏切られたような、恋人に三行半を食らったような喪失感というか違和感を覚えたりもする。

が、その数秒後、妙に嬉しくなっている自分に気がつく。
全てに対して同じ意見を持つ人?気持ち悪すぎる。
似ているなぁと思う人でさえ、視点は同じでないという当然のことに気がつく。
そして、それまで信頼を置いていた人の、自分と違う意見という物にふれることができるという機会は、自分の考え方を変えるきっかけとしても非常に大きな力を発揮する。
どこぞの誰かが言うのではなく、いつも自分にとって納得のいくことを言っている人が自分と違う意見を言っているという場合、自分自身の意見を考え直すきっかけとして最良のものだと思うから。もちろん、考えた結果、やっぱり自分の意見は間違っていないと思うことも多いのだが。

逆に、普段の意見がほぼことごとく反対ベクトルっぽい人と、個別の話題では同意見になったりして、それもまた面白い気付きを与えてくれると感じたり。

映画『靖国』に使われた税金を無駄にしたのは誰か

自民党右派議員を中心とする保守派の方々は、「反日的な内容」を含む『靖国』に税金が使われたことを問題視しているらしい。
私は『靖国』を観てもいないので、「反日的な内容」が含まれているのかどうかということ自体について論ずる資格もないし、論ずるつもりもない。
(そもそも、日本の過去や靖国神社天皇等を批判的に取り上げることが「反日的」であるかについても大いに異論はあるが、ここではそれは置いておく。)
ここで考えてみたいのは、「反日的な内容」が含まれる映画の製作に日本の税金が使われることと、それを国会議員が問題として取り上げることの是非についてである。
少なからぬ人々にとって、「反日的な内容」を含む映画に日本の税金が使われたという事実は、何の検証の必要も無く明らかな罪悪であるようだ。そういう人々にとって、「親日的な内容」「反反日的な内容」の映画に日本の税金が使われることは、無問題なのだろうと、私は推察する。
でも、それって外から見たら(国益を考えたら)本当に自明のことなのだろうか。
朝鮮中央放送の番組が、朝鮮の外の人に対して、朝鮮の考えに共感をもたらすような効果を持つだろうか?
一方、国営ではないが、BBCのドキュメンタリーは英国政府に都合の悪いものもしょっちゅう含んでいるが、これは英国の国益を損なっているだろうか?
もし、『靖国』が「反日的な内容」を含んでいたとして、日本の税金がその製作に使われていたことは、日本にとってマイナスとなるだろうか?
「それ見たことか、日本の政府だって認めてるんだ」というような見方をする外国人もいるかもしれないが、そういった人々は、そもそも何をやっても親日になどなりはしないだろう。むしろ、日本の正当性を強調するようなドキュメンタリーを税金で作ったりすれば、反感を高める効果しかないだろう。一方、「反日的な内容」を含む映画の製作に日本が税金で援助をしたということになれば、日本の懐の深さを示し、対立する意見に対しても敬意を払う民主主義の国家としての評価を高めることになり、比較的中立的にものをみることの出来る人であれば、日本の過去の歴史に対して悪感情を持っている人であっても、怒りの矛先を鎮めることにもなりうるのではないかと私は思う。
これが成り立つということを勝手に仮定した上で話をすすめるが、せっかく懐の深さを示すチャンスであったところに、一部の自民党議員をはじめとする勢力が「反日的な内容を含む映画への税金の支出」を問題として糾弾したことはどういう影響を与えるだろうか。これにより日本の評価が好転するとは思えない。むしろ、せっかく民主的で懐の深い国であるとの印象を与えるチャンスを台無しにしてしまう行いだと私は思う。
ということで、まとめとしては、費やされた税金がせっかく日本のイメージアップに役立つチャンスがあったのに、それを無にするどころかマイナスに転じてしまった人々は、本人の意図とは裏腹に税金の無駄遣いの張本人となってしまっているのではないのかというのが私の意見。

大量生産VS手作り、人工VS天然

大量生産より手作りがすぐれていて、人工のものより天然の物の方が体に良くて、それでいて、それらしい科学技術の粋をこらしたという売り文句の疑似科学グッズも好きという現象について、いつか書きたい。
今はその元気も無いし、ネタも熟成されていないので、しばらく店晒しになる、もしくはそのまま書かないかも。

公営・公共の施設・事業をお金だけの収支で評価する論評について

タレントの橋下氏が大阪府知事に就任して以来、赤字の公営施設(公共事業)なるものがマスコミを騒がせているようだ。もちろん、それ以前から同じような報道は少なからずあったのは確かだが、ここのところあまりに頻繁に出会う。

さて、マスコミにおいて赤字の公営施設なるものが登場するとき、なぜか自動的に悪いもののような評価をされていることに、私はとてつもない違和感を覚える。

私の理解では、公営施設というのは、利益になるかならぬかに関わらず必要なものであるべきというものである。
すなわち、特定の公営施設の存在と運営の妥当性を評価するうえで、問題とされるべきは、赤字であるかどうかではなく、費用に見合った効果が得られているか、効果に見合った費用で運営されているかというではないだろうか。

別の言い方をすれば、黒字を出していても、民間に任せてかまわないものであれば、公営である意味はないし、更に言えば、採算が合わない施設・事業であるからこそ民間には任せられず公営になるというものも多いのではないだろうか。

そもそも、公営の施設に単純に収支のバランスから赤字という言葉を使うこと自体がナンセンスだと思う。
営利企業ではないのだから、バランスを取るべきは、収入と支出ではなく、費用と効用であるべきなのだ。

もちろん、効用に見合わない費用をどぶに捨てているような事業や施設は論外であり、そういうものが少なからずありそうなのは大問題だが、それであればこそ、単なる収支の論議に矮小化するのを避けなくてはならないと思う。

追記

ここで言っている「赤字」は、予算に対する赤字という意味ではなく、事業や施設の単独収支で見た赤字のこと。マスコミでの「赤字」という言葉は、そういう意味で使われているようなので。想定した費用を公費から支出して、それでも足りなくなってしまうような「赤字」はもちろん問題である。その場合、かかりすぎた支出・少なすぎた収入の妥当性の有無を吟味した上で、対策を打つべきものなのは言うまでもない。